11. 寳林山 照源寺(小野谷町)

北日野地区自治振興会

杣山城、松ケ鼻城が落城し、城主の菩提を弔う家臣によって建立されました。真宗三門徒派で、本山は福井市中野本山専照寺で、開祖如道上人は畑村に数年住んでいたと伝えられています。

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小野谷町寺院 寶林山「照源寺」

越前国今立郡小野谷村第三番地 字寺山

祭神応神天皇  ※合祀 宇賀魂命 菅原道真公
由緒杣山城と前後して松ヶ鼻城。落城し、又、城主・金剛左兵衛吉信山上三ツ峰に於て、戦死せられたり。其の臣某(家臣)、當区に庵を設け、主の菩提を弔ふと傳ふ。天台宗なりしも、正保元年(1644年) 泰存なるも、善正上人に帰依し、上人の弟子となり、真宗三門徒に改宗し今日に及ぶ。
境内面積一六〇坪
檀徒信徒数     (檀徒) (信徒)
北日野村  三三戸  四〇戸
武生町   一九戸     一四戸
神山村    三戸
福井市    二戸   二戸
計     五七戸  五六戸
※享保六年 鯖江藩「鯖江藩寺社改牒」によれば

浄土真宗三門徒派 足羽郡福居専照寺末寺

無住照源寺 番僧祖南
本尊阿弥陀如来木像立像 長壱尺五寸
如導上人木座像 長壱尺弐寸
釣鐘弐尺壱寸
太鼓壱尺弐寸
三間×五間
弐間×三間 番僧独住
境内四畝七歩 村除

明治十二年「寺院明細帳」に足羽郡福井中野専照寺末寺

由緒当時往古ハ天台宗ニ有リシ処、天保年中ニ泰寿ト申僧 本山善正上人ノ弟子トナリ夫ヨリ改宗ス。
 當住迄十四世
本堂前口 六間  奥行 六間
庫裏前口 四間  奥行 六間
鐘桜二間四方
信徒数二八〇人 以上

照源寺は、過去に二度、火災に遭っています。そのため往古の史料も乏しく開祖など詳細については、不明な点があります。元来は、天台宗の寺院だったといわれています。口伝として、天和三年(1683年)福井中野本山(専照寺)の第十四代目、善正上人の末子が、照源寺を継いだとされています。中野本山の開祖は如導上人ですが、小野谷村の隣、畑村に数年間住んでいたと伝えられています。照源寺の門徒は、毎年八月九日に、中野本山に墓参りに出向いています。

寶林山 照源寺諸行事

6月8日永代経
8月7日墓参会
8月9日本山墓参会
9月18日二間四方
10月23日報恩講
12月7日精算講

お講さま

毎年 一月・二月・三月・七月・十一月には檀家の皆さんによるお講さまを照源寺にて行なっています。十二月に関しては「和算講」と「お講さま」が行なわれます。

照源寺境内入口に安置 大きな〝お地蔵さん〟

昔、東京在住の方が小野谷村に住んでいました。大東亜戦争の時、東京大空襲で、一家全員が犠牲になり、〝絶家〟状態になりました。この時小野谷村の住民が、一家を哀れみ供養のために、お地蔵さんを祀りましたた。現在は、このお地蔵さんを祀られた方も小野谷村から出ていかれ、照源寺がお守りしています。

〝ほらの池 伝説〟
照源寺は、戦国時代の戦乱に巻き込まれて、焼き討ちにされたと云われています。照源寺には、〝ほらの池〟と呼ばれている池がありましたが、この池近くが、織田信長に焼かれる以前、照源寺が建立されていた場所とされています。

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