6. 日埜神社(向新保町)

北日野地区自治振興会

敷地内には、岩刎工事に感謝した古郡文右衛門の功徳をたたえた古郡神社があり、岩刎工事に関係した品物が残されています。また神社横手からは西国33番観音霊場巡りができます。

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向新保町に鎮座する神社 【向新保町共有文書】

日埜神社(ひの神社)

村社 越前市向新保町三十三の七
※石川県だった時代の地籍表示は「南条郡向新保村五、六、七番地字宮ノ下」

祭神・宇迦魂神は 無格社稲荷神社として同字蓮田五番地に、伊邪那美尊は無格社白山神社として同字宮の下五番地に、大物主神は無格社金比羅神社として同字宮の下六番地に、天照皇大御神は無格社神明神社として同字森の上二番地にそれぞれ鎮座の処、明治四十年(1907年)十月二十八日 福井県の許可を得て本社に合祀する。
 當神社 人皇四十三代聖武天皇 天平三辛未年(731年)勧請。
右は民家出端松ヶ鼻に松葉神祠日野山権現と崇敬仕来り元禄年中(1500年代中頃)度々水害蒙り、本社より参百歩山上、日野山権現 祭神・火産霊神胴像を遷座し、明治五壬申(みずのえ・さる)年四月、神仏混更の際、本社に移転し、明治四十年十月二十八日、福井県の許可を得て、無格社金刀比羅神社・白山神社・稲荷神社・神明社を本社に合祀する。

祭神火産霊神 継体天皇 ※(外 四柱との記述も有り)
※ 合祀 宇迦魂神  伊邪那美尊
     大物主神  天照皇大御神
由緒不詳
社殿間数前口 四間  奥行 五間三尺
拝殿間数前口 五間  奥行 三間
石鳥居壱基 高 一丈五寸  根巾 一丈
祭器具入前口 二間  奥行 二間
禁制札高 壱尺五寸 横巾 弐尺五寸
境内坪数百七十五坪
※明治四十年八月七日 境内区域増加
氏子戸数三十七戸

※日野神社の宝物のひとつ、「観世音菩薩座像」は、養老年間の泰澄大師作と伝えている。 高75㎝)
※「養老」とは、717年~724年

稲荷神社

無格社  南条郡向新保村五番字蓮田

祭神宇迦魂神
由緒不詳
社殿間数前口 三間  奥行 四間
境内坪数二十五坪
氏子戸数百八十四人

※明治四十年十月二十八日。村社 日野神社に合祀。

白山神社

無格社   南条郡向新保村五番地 字宮ノ下

祭神伊邪那美尊
由緒不詳
社殿間数前口 二間  奥行 二間
境内坪数十四坪
氏子戸数百八十四人

※明治四十年十月二十八日 村社 日野神社に合祀

神明神社

無格社   南条郡向新保村二番地 字森ノ上

祭神天照皇大御神
由緒不詳
社殿間数前口 八尺  奥行 八尺
境内坪数六十二坪六合
氏子戸数百八十四人

※明治四十年十月二十八日 村社 日野神社に合祀

金毘羅神社

無格社 南条郡向新保村六番地 字宮ノ下

祭神大物主神
由緒不詳
社殿間数十六坪
氏子戸数百八十四人

※明治四十年十月二十八日 村社 日野神社に合祀

日野神社〝御神体〟に関する逸話 『私が生まれ育った向新保』

日野山を霊山として祀る日野神社の本尊は文殊菩薩ですが、次のような逸話が残されています。

向新保村の原点である松ヶ鼻地域に居住していた豪族は、勢力を伸ばしていたのですが、他の豪族に攻め込まれて滅ぼされたといわれています。

攻め込まれた時、一族の守り神であった文殊菩薩を護ろうと、左手に持っていた経典は、豪族の長男が平吹村の山中へ、本尊は、次男が荒谷村の山中へ、獅子は、三男が萱谷村の山中へ持って逃げたと伝えられています。この三つが一体となれば、国宝級の文化財であるといわれています。

日埜神社境内 石柱

吉野朝遺跡

松ヶ鼻城 南方山上

二峰城祉 山頂

南北朝時代、南朝方(後醍醐天皇)により築かれた城

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