1. 高志箭放神社(矢放町)

北日野地区自治振興会

崇神天皇の時、大彦命が北陸巡行の折、賊が背後から矢を放って激戦が展開された場所で箭放(やはなし)と名付けられました。県道沿いに御影石の鳥居が建ち、長い石段を登と本殿になります。

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矢放村の成り立ち

「矢放村(やはなしむら)」 という村名の由来については、云い伝えでは、崇神天皇の時、大彦命が北陸に派遣され、丹生郡八田村付近より舟津に向かわれた時、賊が背後より大彦軍を襲ってきたので矢を放って、激戦が展開された場所が、矢放地域であるところから、この名が付けられたといわれています。また、矢放村、隣の矢船村、及び日野川原一帯は、弓矢の練習場(的場)であったと伝えられています。

矢放町の神社

高志箭放神社

高志箭放神社

石川県管下越前国今立郡矢放村七十九番地 字・寺向
明治四十二年四月十四日 「矢放神社」の”矢”を”箭”と改正

祭神別雷神
由緒不祥
本殿間数前口 一間 奥行 九尺
明治四十年十二月十九日、本殿の前口十六尺に改築
拝殿間数前口 五間 奥行 二間
明治四十二年一月二十一日、前口二十四尺 奥行十五尺に改築
石鳥居高 壱丈五尺 根巾 壱丈 棟長 壱丈
祭具入間口 五間 奥行 二間
境内坪数三百九十坪
氏子戸数四十二戸
春祭禮四月二十四日
秋祭禮九月二十三日・二十四日

昭和四十五年、明治百年記念事業として本殿及幣殿を増改築

愛宕神社

無格社(廃社)

祭神伊弉冊尊(いざなみのみこと)
軻軌突知命(かぐつちのみこと)
由緒不祥
建物前口 一間 奥行 九尺

明治四十年十二月十九日に、本殿を拡張して改築し、同日、祭神伊弉冊(いざなみのみこと)軻軏突知命(かぐつちのみこと)を祀る、境内愛宕神社を福井県の許可を得て本社に合祀する。

金毘羅神社

無格社 石川県管下越前国今立郡矢放村八百二番地 字石仏

祭神大物主命
由緒不祥
社殿間数前口 七尺 奥行 九尺
境内坪数三百坪 信徒人数二百五十人

※明治四十一年十一月九日 廃社

高志箭放神社(こしやはなし)という社号について

「高志」というのは、奈良時代に福井県を含めた北陸地域が「越(こし)」といわれていたことに由来していると思われますがこの神社の社号については明治に入ってから「神社改正法」が制定された後、現在の社号に改められました。

北陸地域が越国と呼ばれたのは、奈良時代の大化改新(645年)と云われています。こうした事柄に由来した社号であれば、この高志箭放神社の歴史は、往古まで遡る(さかのぼる)と考えられます。

しかし 矢放町と帆山町の中間に鎮座していた帆山神社が大屋町を含めた三ヶ村の集落の氏神であった事や、大屋町の白山神社は、帆山神社から分祀された神社であることから、箭放神社も同様であったと考えられます。

秋祭には子ども神輿が登場

神輿が集落を練り歩くのは九月二十三日です。小学一年~六年生までの児童が揃いのハッピを着て一軒ずつ廻りご祝儀をいただきます。

山頂に座する謎に満ちた巨大な「経塚」

矢放村背後の山頂には、写真上のような巨石を組み合わせた「経塚」が見られます。経塚の高さは約3.1m。全幅約2.9m。このような巨大な岩を、昔の人はどうやって山頂まで持ち上げたのか不思議です。

=句一首=
白帝の経の足跡岩眠る

歴史を刻む古墳

北日野北西に村国山あり、その南麓矢放及び帆山の山地部に小型の古墳多数存在し既に発掘せるもの多い。此地のものは麓より梢高き山腹の傾斜緩なる部分に築造され、封土なる部分が築造され封土は著しからず。区民は山地を踏み鳴らし其音響さきによって石室の存在を確かめ得るという。残存せる石室は口を南に三十度、西に向け玄室奥壁の底部にて幅四尺七寸、高さ5尺七寸五分東壁残存部六尺七寸、西壁長さ十三尺、天井岩二枚あり。この付近地字を経塚と称し山頂には経文を埋めたと伝える処あり。(大正十年年三月発行 発行者 福井県内務省) 

(旧帆山神社跡地から現地までの道が整備されています)

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