9. 八幡神社の大杉(畑町)

本殿へ上がる石段には大杉があり有名です。朝倉家代々の崇拝を受けていました。神社横手からは松ケ鼻城址に登ことができ、神社左手山中には水の神様 弁財天と権現様の祠があります。

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畑村の氏神さま「八幡神社」

村社 石川県管下越前国今立郡畑村三十二番地字上出口

祭神応神天皇  ※合祀 宇賀魂命 菅原道真公
由緒不詳
氏子戸数二十二戸
崇敬者586人
本殿間数前口 四尺 奥行 六尺
拝殿間数前口 三間 奥行 二間半 ※明治四十一年一月十五日 改築

祭神 宇賀魂命は稲荷神社として、また、菅原道真は天満神社として本社境内に鎮座していましたが、明治四十一年一月十五日 本社・八幡神社に合祀されています。

本社・八幡神社は、上古の勧請に係ると伝えられ、中世以降朝倉家代々の崇拝をうけていました。中でも、文明三年(1471年)八代当主朝倉氏景の時、八代将軍、足利義政(南朝)の命令で、父・敏景と共に歴戦、朝敵(北朝)と戦い、大いに手柄を挙げました。

その後、織田信長勢との戦いを前に、各地に砦(とりで)を設けて、防衛体制を厳重にしました。現在でも、北日野地区内には数ケ所、当時の城跡(砦跡地)が残されています。

天正元年(1573年)八月、遂に織田信長勢が越前に侵攻して激しい戦いの末、朝倉義景勢は壊滅しました。その時、八幡神社も悉く兵焚に遭っていますが、宝物は戦火の難を免れ、また、妙永寺と朝倉家の関係を示す寄進状も、焼失の難を逃れています。八幡神社には、「烏帽子酒」及「御宮講」という習わしがありました。

背後の山頂に”畑城・松ヶ鼻城” 朝倉義景と深いつながりをもつ畑村

北日野地域には、いくつかの城址(砦・とりで)の存在が、確認されています。その多くは南朝(京都)と、北朝(奈良)のそれぞれに朝廷(天皇)を置き、相対して激しい争いを繰り広げていた南北朝時代に設けられたもので、北日野地域に造られた城(砦)のほとんどが、南朝側に味方した朝倉一族の砦で、畑村の背後にあった城もそのひとつで、城の名称は、畑城、松ヶ鼻城と呼ばれていました。

造られていた場所は、八幡神社の境内右横側を登った所にあり、この城跡には立札が立てられています。こうした城は、有事の場合のみ兵達が参集していたもので、平常は無住でした。この両城は、今庄の杣山城(城主 瓜生保)と共に南朝側の拠点として造られていたものでした。

近年、滋賀県から〝のろし(狼煙)〟を上げて 次々に、各城をリレ―して、最終地点の一乗谷へつなぐ歴史イベントが行なわれていますが、当時もこの程度の規模の城dであったと思われます。

畑の八幡神社は朝倉家代々が崇拝していた神社で、滅亡後の貞亨元年(1684年)から元禄五年(1692年)までは、幕府領となり、同年より宝永五年(1708年)の約十六年間、今立郡野岡村に代を置いた土岐頼殷(ときよりたか)領となっています。その翌年からは、再び幕府領になり享保六年(1721年)からは、他の北日野地域の各集落同様に明治維新までの長い間、鯖江に代官所を置いた 間部領(鯖江藩)の支配を受けていました。

★「斯波高経ノ軍 越前府中ヲ陥ル 尋デ 又 大塩・松崎(松ヶ鼻の意か)妙法寺ノ諸城ヲ陥シ 脇屋儀助ヲ平葺(平吹)ニ攻メテ之モ破ル」とあります。                
※(脇屋儀助は新田義貞の弟)

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