4. 曹洞宗大本山総持寺開山 瑩山禅師御誕生顕彰碑(帆山町)

北日野地区自治振興会

多襺の観音堂に参詣の道中に帆山町で誕生されたのが瑩山禅師と伝えられています。碑は昭和44年生誕700年記念事業として建立されたもので、横には寄り添うように慈母「老養碑」が建っています。

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西惣兵衛家で誕生した総持寺開祖 瑩山禅師

瑩山禅師は自らの誕生地を『開山行状記』のなかで、「多禰ハ越前丸岳ノ脇キトイハラノ下 多子ノ村ナリ」と記しています。

信仰心厚い慈母は、子宝に恵まれることを願い、毎日山道を多禰の観音堂(帆山村 帆山寺)に詣でました。そんなある日、道すがら産気づき、親切な西惣兵衛家で誕生したのが瑩山禅師(幼名行生)といわれています。父は瓜生長之進計寛、法名・了閑上座。母は懐観大姉といわれ、三七歳という高齢の出産でした。

行生は八歳の時、道元禅師の弟子であった祖母 明智優婆夷に手を引かれ永平寺へ上り、第二世懐奘禅師、第三世義介禅師を師と仰ぎ、得度して「瑩山紹瑾」と改められました。

その後、義介禅師と共に金沢へ移り、第二代大乗寺住職、羽咋永光寺、能登総持寺を開山、後醍醐天皇から紫衣法衣を許され、「曹洞出世道場」として認めら、全国から多くの弟子たちが参集してきました。

元亨(げんこう)元年(1311年)四月十八日の明け方、諸嶽寺観音堂という行基菩薩が開山した真言宗の寺院で、定賢律師は不思議な夢を見ました。僧形観世音菩薩が夢枕に現れ「羽咋郡酒井保の永光寺に 瑩山という優れた禅僧がおられます、この寺を譲リ渡してこの地を聖地として仏法を広めてほしい」と告げると消え去っていきました。

その五日後の暁天、瑩山禅師が永光寺で座禅をしていると、観音様が目の前に現われて、「櫛比庄の諸嶽寺で定賢律師という高徳な僧が、この寺を禅宗に変えて欲しいとお待ちですよ」と告げると立ち去って行きました。

そこで夢のお告げに従い、その寺に出向きました。瑩山禅師は、「この寺はすばらしい霊場であり自らが修行して仏法を盛んにすれば、禅の教えは世の隅々まで広まるであろう」と確信しました。この寺が、のちに瑩山禅師が能登に開かれた曹洞宗「諸嶽山 総持寺」です。

深い慈母の観音信仰で誕生した瑩山禅師の側には、常に観音菩薩がいました。

能登半島といえば、辺ぴなイメージですが、当時は大陸と日本をつなぐ海の玄関口として栄え、海運航路に乗って瑩山禅師の教えは全国に伝播していきました。

高祖道元禅師の教えを基本理念に、新しい社会に適合した「加持祈祷」「祭礼」など現世利益を積極的に採り入れ、門弟の育成、下級武士や商人に戒((かい) を授け男女平等を説き、女人済度につとめました。

瑩山禅師は正中二年(1325年)八月十五日、自らの安住の地としていた羽咋「永光寺」にて五十八歳で遷化されました。

遺偈
「自ら耕し自ら作る閑田地 幾度か売り来たり買い去って新なり限り無き靈苗の種は熟し 法堂上に鍬を挿しはさむ人を見る」

瑩山禅師名称の経緯
幼名 「行生」
得度 「瑩山紹瑾」

瑩山禅師が死後に、賜った諡号
後村上天皇から「佛慈禅師」     
後桃園天皇から「弘徳圓明国師」
明治天皇から 「常済大師」ー希玄道元ー孤雲懐奘ー徹通義介ー

瑩山紹瑾  峨山韶碩  通幻寂霊

通幻禅師 府中に龍泉寺を開く

通幻五哲(越前 五人の高弟)
普済善救(禅林寺)徳尾町
不見明見(興禅寺)村国町
天眞自性(慈眼寺)今庄町
芳庵祖厳(願成寺)土山町
天徳曇貞(宗生寺)新保町

瑩山禅師 開山塔 永光寺(羽咋市・はくい

瑩山禅師御誕生地に顕彰碑完成

瑩山禅師 御生誕七百年記念行事の一環として建立された碑は、高さ五㍍巾一・六㍍ 厚さ四十㌢で、紫雲台猊下御親筆(総持寺独住第十九世 絶海勝俊禅師)の「瑩山禅師 御誕生地顕彰碑」の文字が刻まれ、玉垣に囲まれた台上に立つ壮大なもので、当時、敦賀方面からくる北陸本線の車窓から武生駅へ入る手前右側の山裾に家並みを越して望まれました。

当時、武生市では碑を中心に、八千平方㍍の敷地を提供、青年の研修道場や老人ホーム等を、芦山公園と結びつけて観光地として開発する予定でした。

顕彰碑「碑文」 (顕彰碑裏面)

禅師ハ西紀千二百六十八年十一月二十一日。越前国多祢邑(村)瓜生家ニテ生ル

観音信仰厚イ母堂ハ「胎内ノ子モシ将来世人ニ益スルナラバ守ツテ産安カランコトヲ、モシ世人ニ害アラバワガ身ト共ニ滅バンコトヲ」ト仏前ニ願ヲ掛ケ毎日三十三卷ノ観音経ヲ唱シ、三百三十三拝ノ行ヲナシナンナク安産 行生ト名付ケラレル

名ノ由来ハ観音堂屋敷内ヲ歩行中ニ誕生セシ故ニテ、仏台座ニ生髪ト臍尾ヲ中ニ容レテ納ム、長ジテ学徳兼備行解相応ノ大禅匠ト成リ、後醍醐天皇ノ篤キ帰依ニ依リ「開山ノ能登総持寺ハ日域無双ノ禅苑、曹洞出世ノ道場、ヨロシク南禅第一ノ上刹ニ相並ビ紫衣法服ヲ着シ宝祚ノ長久ヲ祷リ奉ルベキモノ、天機カクノ如シト論旨ヲ下賜サル、即チ勅定ニ依リテ曹洞宗ヲ称シ大本山ヲ制シ、宗団構成ノ礎ヲ築キ現在大宗派タル基ヲ開ク。

コノ功業ヲ偲ンデ、昭和四十二年禅師御生誕七百年ノ慶事ヲ迎ルニ当リ誕生地武生市民並ニ本山縁故者有志ノ協力ニヨリコノ縁由ノ地ニ報恩彰ノ碑ヲ建立シ以テ永クソノ恩徳ヲ讃ウ。

  昭和四十四年一月十三日
大本山総持寺独住第十九世
勅賜正應天眞禅師 絶海勝俊撰

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