7. 絶壁に建つ摩崖仏(向新保町)

北日野地区自治振興会

大きな岩に刻まれた六字名号は、縦260㎝ 幅45㎝あります。毎年のように決壊していた日野川に本保陣屋代官古郡文右衛門の指示で丈夫な岩刎(堤防)が造られました。その工事の犠牲者に冥福を祈り彫られたと伝えられています。

目次

日野川の洪水を止めた”岩刎”の陰に多くの犠牲者

古郡文右衛門 岩刎(いわばね)物語

向新保村と幕府の代官 古郡文右衛門とは、深い繋がりがあります。

それは、毎年のように洪水を引き起こしていた日野川の護岸工事”岩刎(いわばね)”にあり、古郡文右衛門の偉大な功績は、向新保村だけに限らず、北日野・北新庄にまで、大きな恩恵を与えたことは、今もなお語り継がれています。

古郡(ふるごおり)右衛門とは一体 誰

古郡文右衛門は、元禄七年(1694年)から正徳二年(1712年)まで鯖江陣屋に赴任していた代官です。宝永五年(1708年)の大洪水により、向新保地域の田畑や家屋が流され、農民は大きな被害をうけました。その窮状を救うため、古郡文右衛門は、付近の松ヶ鼻山から、巨石を切り出して、日野川の川底に積み上げて堤防を築き、洪水を防いだのです。

この岩山から運び出され日野川に設置された巨石群を「岩刎」と呼びます。

現在でも、当時の岩刎の一部を見る事が出来ます。重機もない時代、工事は大変な困難を極め、数多くの犠牲者を出しています。

この大工事の完成後、大きな洪水に見舞われることもなく。この地域の人たちは、文右衛門の功績を称え、後世に残すべく古郡神社を日野神社境内に建てました。 大正末期には、石製・武者像も安置しました。

山中にある「摩崖仏(まがいぶつ)」をもっと知ろう

南無阿弥陀佛 天保五甲午年六月□日 施主 釈善念
  余田町 片山治左衛門
  ※(ここに刻まれている「釈善念」は朱入)

★ 左半分には墨書銘ばかりである。
  南無・・・・・  □□下通村
   常・・・・
   ・・・・・

左半分の墨書文字の「南無」は、大きいが、その下は名号か、あるいは題目は消滅して不明です。近くには、石仏(丸型・地蔵座像)や、墓石が二点あり、墓石は、一石五輪塔の地輪を転用したものと考えられ名号があります。その他、一点は六角の台座があり、その他の三面には、次の陰刻があります。

文久三亥年
 専惣妙心法尼
  三月三十日

文政二卯年
 妙解生善法尼
  六月九日

嘉永七寅年
 即脱離心大姉
  八月十日

ここに紹介した磨崖仏は、時宗の僧・善念が施主となり、刻んだものです。

岩刎の完成は、正徳二年(1712年)で、磨崖仏に刻まれている天保五年(1834年)までには、約百二十年の隔たりが見えます。往古、この磨崖仏の下辺りに、通称・毫攝寺街道(ご本山道)という険しい山道があり、この断崖は、岩刎工事の巨岩の石切り場で、その真下には、日野川が流れています。

ここに現れた「釈善念」とは何者

石切場で切られた大きな岩を日野川まで運ぶ途中の川に架けられていたといわれる分厚い石板

先記の〝釈善念〟とは、時宗、称名寺の僧であろうという推測ができます。当初、称名寺が、現・越前市余田村(はぐり村)に建立していたのは正徳二年(1712年)頃で、時宗二代「真教」が当地に遊行の際、時宗に改宗しています。その後、時宗十四代・大空上人の頃、越前市あおば町(現在地)に移転したという経歴を持っています。

「岩刎の碑」

元禄中期(江戸時代)幕府代官古郡文右衛門は、父祖譲りの甲州流土木技術と工事費千両を投じて、日野川に岩刎を築いた。松ヶ鼻山から切り出した巨岩を、川底から積み重ねる工事は、多くの人命を失うなど困難を極めたが、この完成によって、初めて洪水を防ぐことができた。その後も、幾度か水害に見舞われたが、我々の祖先は、この文右衛門の遺徳を継いで、明治の初め頃まで、岩を運び、堤防修築と水利確保の為に努力してきたのである。この碑の石は、巨岩を運んだ「大ガラ」の道(通称 岩引道)に架けられていた当時の橋板です。

岩刎工事の功績を称えた記念碑

神明神社三社殿 『松ヶ鼻用水沿革史』より

岩田の神明神社」
 鳥居には「元文2年戌□4月(1737年)」
「南条郡向新保村氏子中」
鳥居背後の石燈籠

古郡文右衛門は、元禄七年(1694年)から正徳二年(1712年)までの十八年間 鯖江陣屋所に赴任していました。この岩刎の工事は、幕府の許可を得ず、独断で実行したもので、その結果、宝永七年(1710年)七月十八日、その責任を負わされたと伝えられています。

「岩刎さん(いわばね)」

「岩刎さん」は元々 日野川の中の岩刎(いわばね)の上に祀られていましたが、今から約50年前に、現在地の日野川の堤防の上に移されました。この祠(ほこら)の、はっきりした由来は不明ですが、岩刎工事(護岸工事)で犠牲になられた工夫たちの冥福を祈って祀られたのではないかと伝えられています。

岩刎工事概要

この大工事は、向新保村の住人だけにとどまらず、近在の小野谷村・矢放村・帆山村・畑村などから、多くの村人たちが参加して完成させた大工事でした。しかし、工事は、百姓たちにとっては、普段、経験した事もない難しい工事で、幾人かの犠牲者も出たと伝えられています。工事に従事した百姓たちは、昼の弁当はそれぞれが持参して、現場では味噌汁が振舞われました。この時、百姓たちが使ったとされる〝お椀〟などが現代も残されています。

元文元年(1736年)本保陣屋が廃止され、公領が福井藩預かりになると向新保に石造りの三社殿(神明神社)が建立(2・5m)された。翌年、元文二年(1737年)には、三社殿の石鳥居(高さ2・2m)を建立した。

また、宝暦八年(1758年)には東部神明神社に燈籠一対が建立された。「まんどうさん」は松ヶ鼻上用水取り入れ口周辺に築かれた、第一の岩刎に建てられた神明神社で、村人からは親しみを込めて「まんどうさん」と呼ばれています。

社殿の扉には、

元文元歳辰六月□日。南条郡向新保 
庄屋 服部孫右衛門、
   服部孫左衛門 

と刻まれています。この時代、百姓が苗字を公にすることは許されていないにも拘わらず〝服部姓〟が刻まれていることは、土地の有力者であったことがわかります。

現在の「まんどうさん」は、道路拡張工事で、整備されています。

岩刎に使う大岩を切り出した松ヶ鼻山
岩刎の造成工事は過酷な仕事でした
多くの人足たちが使った〝お椀〟
「松ヶ鼻地蔵堂」
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