8. 朝倉義景ゆかりの寶光山妙永寺(畑町)

北日野地区自治振興会

朝倉義景の奥方が開山した寺で、朝倉家からの寄進状が残されていいます。また、地獄絵図があり旧盆の8月15日には御堂に掛けられます。集落の一番奥、八幡神社に隣接する高台に立っています。

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天台宗 寶光山 妙永寺(みょうえいじ)

今立郡畑村十六の三十

由緒右寺の開基妙永比丘尼は、朝倉義景公の奥方にして、常に天台宗教を信仰し、永禄二年(1559年)得度して妙永比丘尼となられ、同年 妙永寺を創立
天正六年戊寅(1578年)十二月三日遷化
境内面積二七一坪
檀家信徒数今立郡北日野村  檀徒 十一戸 信徒 五戸
南条郡武生町      二戸     一戸
今立郡上鯖江      一戸
福井市         一戸
計           十五戸    六戸

明治一二年『寺院明細帳』
 石川県管下越前国今立郡畑村三十番地字上出口
 越前国南条郡武生窓安寺末寺 天台宗 無住 妙永寺

本尊阿弥陀如来
由緒永禄二年創立  開基妙永比丘、
同年菊法師丸 當寺ニ寄附ノ書、現今存在セリ
堂宇前口 五間半  奥行 五間
檀徒人員六十八人

鯖江藩寺社改牒』畑村の項
 天台律宗南条郡府中窓安寺 「末寺・妙永寺と有り」

本尊阿弥陀木仏 長壱尺八寸 恵心僧都作
脇立 勢至観音 二躰新仏
三間×四間 人数 僧弐人
境内 壱反弐拾歩 御免地
山  一ケ所 五畝歩 同断
  右証文之写
堂宇前口 五間半  奥行 五間
檀徒人員六十八人

朝倉義景の奥方 畑村に「妙永寺」を開く

朝倉家と同じ家紋の焼香炉(妙永寺)
家紋は朝倉家と同じ「三盛木瓜」

時代は移り、永禄二年(1559年) 田の用水路である「上用水」「下用水」はまだ建設されてなく、日野川から手掘りで、用水を施していました。

同じ頃、朝倉義景の奥方である妙永比丘尼(みょうえいびくに)が、、畑村に妙永寺を建立したと伝えられています。畑村の某家に残されている古文書の中に、「菊法師丸 石宮が、妙永寺に屋敷、并に山一箇所を寄進」の記載があります。

妙永比丘尼墓石(上右側)

妙永寺墓地に眠る、妙永寺開祖
寶珠光院妙永比丘尼(朝倉義景の奥方)

上左側墓石

延宝三乙 □□□(1675年) 南無阿弥陀佛

妙永寺境内「法華塔」 
天保十二年辛丑年七月(1841年)建立
天保飢饉後に建立
多重塔
梵鐘(妙永寺境内)
妙永寺境内入口 六地蔵

畑村 玄成院 如如之墓

「玄成院 如如之墓石」
「玄成院 如如之墓石」(裏面)

(正面) 
無漏庵如如僧正之墓

(側面・後面)
釋如如、原諱義敬 姓藤原 文化十四丁丑年 下毛國生 父・佐野眞虎 鎮守府将軍秀郷裔 母・岡井氏也 天保六乙未年(1835)日光山(山号)に上り慈観大僧正に受戒東台邦範僧正に就き、経律研究、法華討論十三年を終え 権大僧都法印 木蘭衣を賜る。嘉永七年甲寅(1854)白山別当職 平泉寺頭塔玄成院持住 明治四年 妙永寺で病気療養明治六年(1911)遷化

菊法師丸石宮から妙永寺に宛てた「寄進状」

畑村 政所分之内
    屋敷 并 大はいたか原山 壱ヶ所
    但堺目北ハ堂ノ坂を切、
    南はひら尾え登る道を切、
    西も同前。我等為ニ 親ニ衛永代令
    寄進候 於此山・屋敷ニ者
    臨時夫役・諸役一粒一銭
    有間敷候者也。
          為後日状如件

   永禄弐年六月三日(1559年)
             菊法師丸 石宮 (花押)
                     妙永庵

畑村 政所分之内
    屋敷 并 大はいたか原山 壱ヶ所
    但堺目北ハ堂ノ坂を切、
    南はひら尾え登る道を切、
    西も同前。我等為ニ 親ニ衛永代令
    寄進候 於此山・屋敷ニ者
    臨時夫役・諸役一粒一銭
    有間敷候者也。
          為後日状如件

   永禄弐年六月三日(1559年)
             菊法師丸 石宮 (花押)
                     妙永庵

妙永寺が生んだ名僧

杉谷 義良

氏名  幼名 「杉谷吉造」   僧名 「義良」  号「雲洞」
誕生  明治三年(1870年)十月三十日  南条郡楠 杉谷又助の二男

明治十年 武生進脩小学校(現・東小学校)に入学 
明治十六年 今立郡畑村、妙永寺・三浦義千の門下に入り、得度して僧侶となり 名を「義良」と改める。その後、滋賀県蒲生郡安土村桑實寺、住職・大多喜守英を阿闍梨(あじゃり)として、四度、加行した後、灌律師に称せられる。

その後、東京東叡山寛永寺一山圓珠院に赴任し、下谷区上野桜木町天台宗大学に入学。 明治二十四年、圓珠院の住職を務め、谷中・天王寺の住職を歴任後、京都山科毘沙門堂門跡となり、天台宗の重鎮として活躍。毘沙門堂門跡を離任後は、書家 西川春洞に師事して、聖道を研修して、杉谷義良独自の書風を以て、書道界に進出雅号「雲洞」と名乗り余生を生きた。

昭和二十一年(1946年)七月二十八日 没 享年七十七歳
法名・慈昭心院大僧正義良大和尚  墓地は、東叡山圓珠院谷中墓地に眠っています。

妙永寺墓地 信行義千法印大和尚

杉谷義良の師匠 三浦義千位牌
權大僧都堅者法印信行院義千和尚覚位 
義千は帆山村 山内家出世

妙永寺墓地
信行義千法印大和尚
明治十七年十月二日 寂

「台座名」
楠町 杉谷 又助
温谷村 松村勘左衛門
帆山村 山内茂右衛門

妙永寺境内 小さな祠「向山宮」

妙永寺は、集落の一番奥、八幡神社に隣接する高台に建っています。向山宮の祠は、本堂に向い合って建ち、西方には、鬼が嶽・妙法寺山を拝す位置にあります。笏谷石製で、扉には、「向山宮」と印刻されていることから、神仏習合時代の八幡神社と妙永寺の関係を伝える祠で、明治新政府の神仏分離令が発令されるまでは、新教仏道も区別されて祀られていることは、ありませんでした。

寶光山・妙永寺 所蔵「地獄絵図」

地獄か極楽か”佛”は慈悲深く浄土へ誘(いざな)います

「十王の話(じゅうおうのはなし)」

人間の一生には「生・老・病・死」の四苦と、愛する人と別れる苦しみ、憎み合う人と別れられない苦しみ、欲しい物を得られない苦しみ、悪い思いの生じる苦しみがあります。また、怒って自分で地獄をつくり、貪欲して餓鬼道に堕ち、愚痴不足をいって畜生の境界となり、醜い争いをして修羅道をつくるというように、人には避けて通れない道があります。「地獄絵図」は死後、悪人が閻魔大王の前で、初七日から四十九まで七日ごとに裁かれ地獄か極楽行きが決まります、百か日、一周忌、三周忌供養することで皆が極楽に導かれていきます。八月十三日の施餓鬼会に絵図は本堂に掛けられます。

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