24. 鳥居に刻まれた「総社大神宮」神明神社(葛岡町)

明治時代以前は氏神観音堂といい、武生総社大神宮と深い関係にあり総社大神宮と呼ばれていました。神明神社という社号は明治時代に入ってから名付けられました。

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葛岡村 神明神社 【鯖江藩寺社改牒】

村社石川県今立郡葛岡村 十六番地 字北屋敷
祭神不詳 一説に大己貴命(オオナムチノミコト)
由緒不詳
本殿間数前口九尺  奥行九尺
※大正三年十二月四日 記
前口 二十七尺五寸
奥行 二十一尺に改築
拝殿間数前口二間  奥行二間
石鳥居高一丈五寸
巾一丈五寸 壱基
氏子戸数十三戸
境内坪数百二十五坪

神明神社については、鯖江藩寺社改牒には「氏神観音堂」とあり、又、今立郡誌には「祭神 天照大神」と記されています。

★塚崎六兵衛氏が奉納した鳥居の社号は「総社大神宮」と刻まれています。神明神社という社号は明治期に入ってから名付けられたもので、それ以前は氏神観音堂でした。

「神明神社」伝説

當社は往古より大巳貴命を祀り惣社大神宮と称したり。この謂れは昔、豊臣秀吉勢と柴田勝家勢の府中での戦いの際、府中惣社では御本尊などに被害が及んでは大変と、葛岡村の氏神観音堂に預けました。府中での戦いが落ち着くまでの数年の間、預けられていたことで、葛岡村の氏神さまは、惣社大神宮と呼ばれるようになりました。

「旧社号惣社大神宮たるの證(あかし) 今なお歴然たるものあり。南条郡武生町 惣社大神宮と葛岡大神宮とは本分の関係ありとて、昔は武生総社大神宮の祭礼には、当時、鍵取御鍵を奉仕する例なりしぞ」という口碑伝説があります。
※神明神社は、明治時代以前までの正式名称は氏神観音堂という名称でした。

文政四年(1821年) 社殿荒廃により、平地境内にあった本殿を高地に改築移転し五〇段の階段を設置する。大正三年(1914年) 拝殿荒廃により新築する。この時、集落からの奉加者は十二名。その他の寄進者と合わせて795円47銭が寄進されました。大正六年(1917年)塚崎六兵衛氏より鳥居が奉納されています。

葛岡村誕生の歴史

葛岡村の起源は、北日野地域において隣の大屋村と並んで最も古い歴史ある集落で、村国山北山麓からの出土品などから、縄文・弥生時代から先住民が住んでいたことがわかります。〝葛岡(くずおか)〟という村名の由来については、近辺に葛の木が生い茂っていたと地元では伝えられています。

葛岡村近辺の開墾は、江戸時代以前には完了して、約十八町歩の田畑を所有していたとされ、その規模は現代に至るまで、ほぼ変化は見られていません。文化十五年(1817年)の宗門帳によれば、戸数は十六戸、人口六十六人と記されていますが、明治二十四年(1891年)の戸数は十三戸。大正九年には九戸と推移しています。その後、新興住宅地などの開発が進み、転入者が増えた関係で、平成時代の戸数は二十六余戸となっています。

本殿建て替えの経緯

明治時代の神明神社

本殿は、荒廃により明治四十年十二月十九日、現・本殿を造営する。『今立郡誌』には、言い伝えとし神明神社の旧社号は「総社大神宮」及び「武生総社大神宮」とあり、府中総社大神宮の祭礼時には、当時本殿の鍵を持参して開閉していたと言われています。

尚、『福井県神社誌』には「祭神 大巳貴命」と記載されています。神明神社(葛岡・惣社大神宮)に鎮座している随神さまは、両大臣とも その幅は、約1.2m。奥行き 約60㎝。高さは135㎝。木製で威風堂々としています。

「大杉」は、樹齢は300年以上と推測されます。幹回り5.6mあり近在ではどこにもありません。

葛岡村・神明神社の御神木
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