25. 日野山下ノ宮(日野山一ノ宮神社・二ノ宮神社・三ノ宮神社)

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日野山 一ノ宮神社

社格村社  ※西谷村 字・宮ノ下 第34号19番地
祭神不詳 ※(一説には安閑天皇とも伝えられています)
応神天皇・菅原道真・宇賀魂命
由緒一説に継体天皇が味真野に御潜龍の時、安閑天皇は郷中真柄村にて御誕生し玉ひて、皇孫此地に坐て(すわりて)日野神社に継体天皇を合祀し、安閑天皇を當社に祭しと云。 又、當社に諸病平癒を祈願するときは、霊験ありと云。
本殿間数前口 三間   奥行 二間半
拝殿間数前口 三間   奥行 二間
前口拾八尺四寸  奥行 九尺四寸に明治四十一年に改築ス
例祭九月二十七日
石鳥居高 十一尺五寸  巾 十五尺   境内坪数 百八十坪
氏子戸数二十三戸 ※(のちに十九戸となる。)
明治四十一年六月二十二日   建立
明治四十一年六月二十二日   郷社(日野神社)に合祀

日野山麓”西の谷”に位置する西谷村集落

日野神社・二ノ宮(日野大権現)

北日野地区自治振興会
日野神社(日野山大権現) 下ノ宮
祭神祭神・ 百日諾尊(ももひなぎのみこと) ・百日冉尊(ももひなみのみこと)
天照皇大神(あまでらすおおみかみ) ・八心思兼神(やこころおもいかねのかみ)
迦具土神(かぐつちのかみ) ・ 継体天皇・應神天皇・宣化天皇
由緒一説に継体天皇が味真野に御潜龍の時、安閑天皇は郷中真柄村にて御誕生し玉ひて、皇孫此地に坐て(すわりて)日野神社に継体天皇を合祀し、安閑天皇を當社に祭しと云。 又、當社に諸病平癒を祈願するときは、霊験ありと云。
本殿木造瓦葺流造
拝殿木造瓦葺入母屋造
氏子百五十戸 荒谷村・平林村・庄田村・岩内村
宮司大虫神社 岡野宮司

往古より、雛ケ岳の神を祀り、養老年間(717年~724年) 泰澄大師が仏像を奉納して日野権現と称す。この時より、神道仏事を兼行し、国中人民の信仰浅からず 特8月23日・24日・25日の大祭典には、参詣の氏子が多く集まり賑やかでした。

日野山頂には、奥の宮三社を祀り、北社は今立郡日野名神を祀り、中社は南条郡兄子神社を祀る。南社は後世の建立にて、平吹権現と称する。中社・南社は、中平吹町へ下山。北社は荒谷町へ下山しています。

※江戸時代になって、山頂の三社の維持管理権が裁判になり、江戸寺社奉行の裁定の結果、北社は荒谷村側氏子の維持管理となりました。

北日野地区自治振興会

「日野大権現」から「日野神社」に明治政府の神社法改正

江戸幕府が崩壊して、明治政府にと時代が移り天皇中心国家が樹立され、神社改正法が施行されました。神社は廃社を避けるために、「私たちの神社には、尊い由緒があります」と競って由諸書が作成されました。

明治時代以前には、本地垂迹説により、各集落の神社には、「氏神さま」「観音堂」などがあり、荒谷村においても多くの村社は 御神体が〝仏〟であったことから、神仏分離令により、小さな神社は、廃社され日野神社に合祀されています。こうした合祀の時期は、明治後期(三〇年~四〇年)のことでした。江戸時代末期までに建立された燈籠には「日野大権現」と刻まれ、現在は「日野神社」と明記されています。

日野山別當「文殊寺」

文殊寺は、神社の祭神が仏の権現であるとされた神仏融合の時代、本地垂迹説により「神社も寺院も同一である」とされ、神社の境内に寺院が置かれていました。明治新政府は奈良時代から続いて神仏融合を禁止して、神社と寺院をはっきり区別する分離令を発令しました。

日野山三所権現 「北之宮」の建替え記述

日野山の麓に、日野神社(下之宮)が鎮座。山頂には、日野山三所権現(北社・中社・南社)が鎮座しています。この奥之宮の管理は、平吹側が南社と中社を、荒谷側が北社を取り仕切るというものでした。※(江戸後期 両者間でこの管轄権について裁判になり その裁定の結果です)。荒谷側氏子によって、この北之宮を建替えた際の「萬覚書(よろずおぼえがき)」延享元年(1744年)が残されています。

江戸時代の参拝者は現代では考えられない程多く 表には鰐口も吊るされ北社の厨子には3体の本尊が祀られ、 お賽銭は文殊寺が管理していました。

日野山中腹に残る大寺跡地

南北朝時代の越前における新田義貞と斯波高経の動乱の兵火で一山は焼かれ、また天正時代には織田信長の徹底した国中の一揆攻めで、全山に安置されていた神仏堂宇は焼き討ちされたといわれていますが、果たしてそうだったのでしょうか。『福井県今立郡誌編纂』には「・・・天嶽上の本殿と麓の遥拝殿のみとなり、社職別当も文珠寺、別山寺のみを残し其餘は悉皆廃絶に歸たり」と書かれています。現在北日野地区日野山下之宮には、平安時代に製作されたとされる薬師如来坐像、聖観音立像、釈迦如来坐像・十一面観音立像が残されていることから、比叡山延暦寺を焼き討ちし、非情と言われた信長は日野山一山を焼かなかつことになります。日野山は農民や商人から敬われ、権力に支配されることなく、純粋な人々の心の支えの信仰山でした。信長もまた神宿る神々しい日野山に恐れおののき、仏を敬う日本人の心を持っていたのではないかと思える一面が見えてきます。

日野山 三ノ宮神社

北日野地区自治振興会
所在地福井県越前市岩内町 福良山ノ山上
御本尊阿弥陀如来坐像  高 三尺五寸
御本尊の製作推定年
西暦一一〇〇年代初期
祭神欽明天皇・石比賣命
※(明治四十一年 本社に合祀)
社格村社
北日野地区自治振興会
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