23. 神土山 圓光寺(大屋町)

真宗出雲路派清水頭毫摂寺末寺で、下野国真壁城主椎尾春時が嘉禄元年(1225)27歳にして親鸞の弟子となり本寺を建てたとあります。圓光寺文書によれば河野村神土を経て横市経由で現在地に至りました。

目次

神土山 圓光寺 【鯖江藩寺社改牒】

神土山 「圓光寺」 今立郡大屋村五番地 字奥谷  
 一向宗  讃門徒  圓光寺

今立郡北日野村大屋ニ圓光寺トテ多ク田地ヲ所有スル寺アリ 東屋村トハ 大屋ノ誤ナランカ 因ニ記ス 柴田鶴林

「鯖江藩寺社改牒」
浄土真宗讃門徒 清水頭村毫攝寺末寺 圓光寺
承元年中ニ同郡神土山村真仏上人開基 円満寺ト号 其後 永享年中 同郡横市村ニ引越 弘治年中同郡大屋村ニ敷地仕候 慶長年中圓光寺ト改申候

本尊阿弥陀仏 立像 長 壱尺七寸
親鸞聖人  聖徳太子 七高僧  善照上人
 右絵像 各一幅ツツ
五間×五間四尺   人数 男女四人
持髙三石七斗五升五合  年貢地
 内
三畝歩   寺敷地
弐百歩余  畠
三畝歩   墓所
弐畝余   田地
半歩余   鎮守 石五輪 朝倉中斐守殿墓所之由申傳候
四十歩余  畠四ケ所
釣鐘堂九尺四方   鐘 弐尺壱寸余
六ケ所  年貢山
 内
壱ケ所ハ荒谷村ニ有之寄附山
百五十歩余 往古ヨリ持来リ申候  以上  円光寺(印)

『古今類聚越前国誌』
※北日野村大屋奥谷ニアリ、下野国真壁城主・椎尾春時。嘉禄元年剃髪シテ親鸞聖人ノ弟子トナリ、法名ヲ真仏ト号シ、此ノ地ニ来リテ、本寺ヲ建テタリ、初メ円満寺ト号セシガ、慶長中、今ノ名ニ改メル。

明治十二年
 石川県管下越前国今立郡大屋村五番地 字奥ノ谷 
 越前国今立郡清水頭村 本山 毫攝寺末 
 神土山 圓光寺

本尊阿弥陀仏 
由緒開基 真仏 出生下野国司大内家国春ノ息男。真仏ノ城主トナリ 俗名 権太軸椎尾弥三郎春時ト申  嘉禄元乙酉十一月四日 二十七歳ニシテ親鸞聖人ノ弟子ト成 諱号真仏 其頃寺号ヲ円満寺ト唱 其ヨリ十三代ヲ歴テ十五世良清ニ至テ 慶長十三年未六月晦日 毫攝寺ニ帰依シ寺号ヲ円光寺ト被改候(改められそうろう)
堂宇間数前口 七間半   奥行 七間
庫裏間数前口 五間半   奥行 七間
境内坪数八六三坪
檀徒数四四五人

圓光寺文書 【圓光寺所蔵文書】

當寺根源ハ 人皇(じんのう)八十三代土御門院御宇承元(じょうげん)元年三月十六日 聖人(親鸞)越後左遷之時 江州(滋賀県)大津打出之濱ヨリ今津江御着アリ 夫ヨリ(それより)段々海津宿・山中宿ト御移リ有テ 即小豆茶屋光傳寺□□御旧跡此時也 其節者河野往来之節ニテ 敦賀ヨリ海上七里河野ヘ御着有テ(ごちゃくありて) 夫ヨリ糠浦ヘ御移リ 即今之神土(じんど)ト云処
御入被成 不思議ニ「神土トハカミノツチ」此処ニ(このところに)一宇ヲ建立セント有テ 忽チニ(たちまち)道場ヲ建立ナサレ 益(ますます)御繁盛有テ御帰依(信者となる)之御門徒夥敷(おびただしく)其数不知 夫ヨリ広瀬村・府中ヲ御通リ末々段々(この後もだんだん)御旧跡有之 其後 廿有余年ヲ暦テ(へて)真佛御房越前ニ御下向之節 再ビ有縁之(うえんの)霊地トテ 神土道場ヲ取立 其時 寺号ヲ圓満寺ト給リ 當寺開基也 此真佛ハ高田ノ真佛上人 柏原末孫(まつそん)下野ケ國司(しもづけのこくし)大内家国春之息男 真岡之城主也 俗名ヲ権太輔椎尾弥三郎春時(ごんたすけしいおやさぶろうはるとき)ト申也 法縁内萠シ故ニ 親鸞聖人之弟子トナレリ 真壁ノ神佛房ト云 聖人五十三歳 嘉禄(かろく)元年乙酉(きのと とり・1225年)十一月四日御歳廿七歳ニテ御弟子トナリ 直様(すぐさま)翌年正月十五日上人之御名代ニ上洛アリ 勅願寺(ちょくがんじ)之綸旨(りんし)ヲ給リ一向専修阿弥陀寺同年二月十九日叓也 真佛房御帰リ高田御着ハ三月五日也 其後関東ヨリ聖人御帰洛ハ(ごきらくは)六十歳。真佛御房ハ丗四歳  聖人ニ随順シ下向之時 越前ヘ下リ 有縁之御旧跡トテ於神土山ニ(じんどさんにおいて) 群青ヲ渡シ 真宗之奥義十八公之法 本願□喚シ 勅命満足之法水故ニ寺號ヲ其時 圓満寺ト賜リ 三年目ニ下野ヘ御帰リ 後住ニ御弟子顕智ヘ仰付在之候得共 御師匠聖人ヨリ高田後々住々ヲ(こうこうじゅうを)仰付在之候得者(仰せ付けこれありそうろうらえば)免テモ不能其儀(許されてもそのぎあたわず) 暫ク顕智上人兼帯御預リト有テ 其後顕智上人之嫡子良安房ヲ被遣(つかわされ) 後住相續セリ(ごじゅう相続せり・住職を引き継いだ) 此良安ハ真佛御房之孫也 其時 顕智房ヨリ宝物二種給リ 是圓満寺第三世之住職也
 一 第一世 親鸞聖人 人皇八十九代 亀山院御宇 弘長二年(1262年)

【途中省略】 
圓満寺第六世(良慶)ノ時 永徳年中(1491年~1495年) 神土村ヨリ千僧供之庄之内 横市村江(へ)移 敷地此良(これら)慶代ニ足利三代将軍義満公ヨリ寺領五十石御朱印被下(くだされ) 一閤一坊也
【途中省略】
第十四世良永代 今立郡横市村ヨリ引越 先代・良心代(第13世)ニ申出シ此良永代ニ弥移す(いよいよ移す) 
右良心代弘治年中ヨリ(1557年)土呂川水論ニ付 横市村・大屋村致口論
夫ニ付引越者也 右有ハ 横市村地領五十石有之 天正兵乱之砌(みぎり・その時)散財
第十五世 良清房 右良清房(第十五世)代ニ地頭ヨリ寺領被下 今ニ少々有残地 其事ニ付 当村於向山三口當寺所持致ス者也
但し良清房 毫攝寺善照上人(本山・毫攝寺の御門主)ニ帰依シ 寺号ヲ改メ
圓光寺ト賜リ 別式之御事仰被聞候(仰せ聞かされそうろうこと) 慶長十二年未(ひつじ 1607年) 六月晦日(みそか・最後の日) 免許之事
【途中省略】
第二十一代 良覚房之代(58歳) 明和八辛卯(かのうと・う)年四月十三日
財物小屋(材木小屋)ヨリ出火シ 三間×六間之小屋 三間×五間之小屋
仕上タル財木(材木)不残焼失
本堂六間半四面 廊下二間×四間 對面所兼帯庫裏(対面所けんたいくり・応接間と生活用建物)三間半×五間  水屋一間五尺×四間二尺 鐘楼堂九尺四方不残(のこらず)焼失 右此通寺社明細帳ニモ有リ
庫裏(くり) 下大田村・九兵衛寄進ニシ而(にして)九月廿六日立
                                   十月仲旬屋移り
安永三年甲午(きのえ うま・1774年)七月十七日ヨリ本堂地築 
                          廿八日マデ  石築ハ八月六日
安永三午年十月廿九日 御本山阿弥陀堂・御影堂 西堂之間ヨリ出火シ 諸宇不残御焼失 中納言様御殿計残申候(御門主の住居は残り申し候)
天明二年癸卯年(1782年) 九ケ目ニ御影堂御再興被為在候(あらせられそうろう) 去年六月ヨリ今年立終ル
※其の後次々と本堂など再建されています。
【以下省略】

 

【上記文の読み下し】  
私共の寺は、その昔今立郡横市村にありましたが、弘治年中大屋村に敷地を与えられ、引っ越してきました。門前には、幅一間二尺の門がありましたが、台風によって大破してしまいましたが、その門の基礎となる石は、そのまま残されています。その後、寺社明細帳に書き忘れたまま、差し出してしまいました。このようなご無礼、申し訳ございませんでした。檀家とも相談して、これまでと同じ大きさの門を建立したいと考えたところ、その材料となる材木などを寄付すると云うので、よろしくお願いを申し上げます。尚、この件については、本寺の毫攝寺にも連絡してございます。檀家とも相談の結果、何の問題も生じませんので、右のお願い御慈悲をもって、お許しいただければありがたく存じます。この件、檀家代表と大屋村の役人が捺印した書類をもってお願い申し上げます。
 圓光寺「聞置申事 横市村ヨリ引越」           

【記述No1】
第十四世 良永の代に、今立郡横市村より大屋村に引っ越し。(弘治年中・1555年~)土呂川に関する紛争の際、大屋村と横市村が口論となる。それによって円光寺は横市を出て大屋村に引っ越すと記述有り。

【記述No2】
弘治年中 大屋村敷地致引越申候与(ト)右之間部様御入之時 享保八(1723年)卯年之書ニ而 御領主記録ニ有与 近年享和元酉年(1801年)右之通年代書上置申候 寺社御用掛リニ而承リ候

圓光寺「聞置申事 清水頭附」
當寺第十五世良清房(りょうせいぼう)之代与(ト) 役僧光闡寺(こうせんじ・五分市)ニモ申候 御本山茂(も)此代ヨリ之事与(ト)相聞申候也
天明六年(1786年)横市村田地ニ付五領内之検地有之 御免(税)軽ク地面者(ハ)少々寛ク(ひろく) 五ケ村検地致シ 其當寺敷地其外寺社共ニ除ク御本山御定目(ごじょうもく)相違ニ付願書出写 但シ奉書紙壱枚ニ而出ス

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