18. 与謝野鉄幹・晶子が詠んだ三部経塚(大手町)

天保七年 「一字一石塔」

天保の大飢餓が疫病で大流行し、犠牲者の霊を慰めるため、府中から毫摂寺へ通っていた僧侶が、毎日小石に経文の1字を書き地下に納めたと言われています。

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三部経塚

三部経塚は、大手町の北側を横断する県道沿にあり、伊藤公俊家の敷地に隣接して建っています。毎日のお守りは、伊藤家の皆さんが行なっています。以前は、現在地前の県道を挟んだ反対側にありましたが、道路の拡幅によって、現在地に移設されています。

天保年間は〝天保の大飢饉〟や、それに伴う〝疫病〟が大流行、各地で多くの餓死者が出て、犠牲者を弔うための慰霊碑を、各地域で見る事ができます。大手村で見られるこの供養塔も、そのひとつでしょう。この「三部経塔」の棹には、天保七年(1836年)と刻まれています。三部経の経文を小さな石に一字ずつ書き、地下納めてあります。

【三部経塚に関する別説】
往古、この近辺に関所があり、往来する人々の取り締まりを行なっていました。また近辺には、罪人を処刑した処刑場があり、後世になって、この近辺に亡霊が出るとの事で、村人に恐れられていました。府中より本山・毫攝寺へ通っていた僧侶が、毎日帰りに、文室川から小石を拾って、経文の一字を記し、ここに納めて 処刑された人たちの霊を慰めたと伝えられています。約六十年前 経塚移設工事の際、一帯を掘り起こした際、小石がたくさん出土しています。

「三部経塚」 歌人与謝野晶子・寛の詠歌

【三部経塚】にて 明治八年十一月 

経を書き弘化の御代に納めしは 二万六千八百の石        晶子
秋の水大手の里をつたいたる その上にあり三部経塔      晶子
いにしへの人のこころをわれ拝む 石に書きたる越の経塚   寛

上の歌は、昭和八年(1933年) 与謝野晶子・与謝野 寛夫妻が、本山毫攝寺を訪れた時、大手町「三部経塚」に立ち寄り詠んだ歌です。

三部経塚の棹に刻まれている銘文

【前面】
浄土三部妙典
 南無阿弥陀佛
一字一石経塚

【後面】
建 立
 釋 教 永
 釋 順 應
石塔施主

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