27. 枝垂れ桜が見事な大屋白山神社とその周辺(大屋町)

北日野地区自治振興会
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大屋村の白山神社 【今立郡寺社改牒】

※白山神社の旧社号は明治時代以前は「白山権現宮」でした。

社格村社 石川県管下越前国今立郡大屋村七番地 字宮ノ上
祭神伊邪那美尊
※(合祀)「金山彦命 応神天皇」「豊受姫命 大屋津姫命」
由緒養老元年(717年)  鎮座  朝倉大膳祈願所ナリ
本殿間数前口 二間半   奥行 二間半
※明治二十一年 三間×三間半に改築
拝殿間数前口 五間    奥行 二間半
※明治二十一年 六間×三間 に改築
廻廊長 二間  巾 壱間
手洗所長 壱間
制札大正四年六月三十日 建築許可
境内坪数二百六十五坪
氏子戸数六十一戸

白山神社の由来書

当白山神社は、帆山村の帆山神社から、養老元年(717年)に分祀された神社で、その後朝倉大膳の祈願所となっています。この境内に鎮座する金山彦神社・祭神金山彦命。八幡神社・祭神応神天皇の二社を、明治四十年八月十七日、白山神社に合祀、また、赤良柏神社(祭神豊受姫命・大屋津姫命)の由緒によると、和銅六年の創立と伝え、明治四十年十月二十六日、白山神社に合祀しています。政令に基づき、大正三年一月 福井県の告示第一号により、神饌幣帛料供進神社に指定され、大正四年六月三十日、福井県において境内へ禁制札が立てられています。

祭礼十月五日
本殿改築の歴史 享保十五年十二月 改築 萬延元年九月 修繕
明治二十一年 改築
寶物太刀 二振 ※(製品作者や伝来の経過などは不詳)
砲弾 三個

(上)は、大屋町・白山神社本殿前に置かれている笏谷石製の狛犬です。このような形態の狛犬は、朝倉一族の庇護をうけた神社に多く見られます。北日野では、荒谷村の日野神社観音堂や岩内村、小野谷村などでもこれと酷似した狛犬を見る事ができます。越前において笏谷石を使い始めたのは、朝倉一族が一乗谷へ移ってからとされています。つまり、白山神社は朝倉家の庇護を受けていました。

「本殿境内」
 奉捧白山大権現
  寛延三年三月
   願主 判読不可
    神

「本殿境内」
(前面)奉納 白山大権現
(後面)白山神社
(側面)文化五辰年□月吉日

豪華絢爛 大屋・白山神社の「絵馬」

戦の絵馬に描かれている”桔梗紋”は土岐藩主の旗印

金山神社

社格無格社(境内神社)
祭神金山彦命
由緒不詳

※明治四十年八月十七日福井県の許可を得て本社へ合祀

八幡神社

社格無格社
祭神応神天皇
由緒不詳

※明治四十年八月十七日福井県の許可を得て本社へ合祀

赤良柏神社

社格無格社
祭神豊受姫命(とようけひめのみこと) 大屋津姫命(おおやつひめのみこと)
由緒和銅六年(713年)創立
境内坪数二十坪
氏子数二百六十三人

※明治四十年十月二十六日 福井県の許可を得て本社に合祀

白山神社に奉納「神額」

神額は、白山神社に数多く奉納されている中の一枚です。ここには「赤良柏神」「白山神社」「加茂神」と書かれています。

「加茂神」とは、白山神社の本社である帆山村の「加茂社」を指しているものと思われ、いわゆるこの「加茂社」の分身が、矢放村「高志箭放神社であり、大屋村の「白山宮」と思われます。

大屋町と「白山神社」「圓光寺」「楞巌寺」の古い歴史

大屋町は、「白山神社」「圓光寺」「楞巌寺」と、往古から古い歴史を刻んできました。日野山・日野神社との関係を示す、史料を紹介します。

※大屋町の圓光寺 日野神社に鳥居を奉納   【圓光寺所有文書】
 享保八年(1723年)癸卯(みずのと・う)
 日野山北鳥居之頼書ニハ享保八癸卯歳 寺社明細帳ニ書落申候筝不調法千万との頼

※大屋村 圓光寺の持ち山が日野山にもあった
 慶長年中(1596年~1615年)
 大屋村 圓光寺  一、年貢山六ケ所(寄付山)
 内 壱ケ所ハ荒谷村ニ有之山  圓光寺 良清㊞

山中に眠る横穴式古墳(穴地蔵・石御堂)

大屋村は、北日野地域では屈指の古い歴史を誇る集落で、平安時代の『倭名抄(わみょうしょう)』にもその名を見る事が出来ます。鎌倉~戦国時代にかけての大屋庄は、近衛領・興福寺領などの荘園となっていました。江戸時代になると、他の集落同様に土岐領~幕府領・間部領と移って行きました。

昭和四十一年、耕地整備事業による工事の際、縄文・弥生式土器が、多く発掘されています。その中でも、穴地蔵古墳は特筆すべきです。西暦六〇〇年代に造られたものと考えられ、石室の奥行きは、約5、15m、高さ約3m、石室の奥正面には、高さ約1・5mの地蔵菩薩像が刻まれ、両面には、「明応十年(1501年)に「越前国今南西郡大屋庄 真柄民部丞光家(まからみんぶのじょうみついえ) 歳参拾六」とあります。

この〝穴地蔵古墳〟は、歴史をさかのぼって大和朝廷時代、大屋郷地域を統治していた、大宅君(おおやのきみ)の墳墓ではないだろうかと推測されています。

「石御堂」の奥の壁の銘文

「干時 明應拾年(1501年)六月廿四日 越前国今南西郡於大屋庄・願主 眞柄民部之丞光家 酉乙(とり・いのと)歳」と刻まれています。穴地蔵では、大屋村・坂野家の十一戸によって「四月三日講」という先祖祭が営まれています。

先祖祭

大屋村に、鞍谷御所から逃げ込んだ、坂刑部と家来の遺徳をしのび、山中で暮らしていた頃の苦労を労うための行事です。先祖祭には、飢えを凌ぐため食した「芹菜(せりな)のおひたし」が供えられます。

坂野孫右衛門家の、第十五代の坂野繁氏が亡くなられた昭和三十九年までは、四月三日講は、本家(孫右衛門)のみで行なわれていましたが、それ以後は、坂野家一族の持ち回りで行なわれていました。しかし、現在は行なわれていません。

孫右衛門家「桧扇」

大屋町の千石岩

その昔、日野川が大雨などで洪水の時、濁流が流れ込み、中でも大屋町近辺には大きな被害をもたらしました。勢いよく流れ込んだ濁流は、大屋町の大きな岩にぶち当たり、東の方に流れの向きを変え、大屋町の農家の田を水害から守ったと伝えられています。

上図のように大屋・葛岡村方向へ流れる堀兼川(矢放村では内川と呼ぶ)の水量だけでは、両村の飲料水・田の水を賄うには不足していました。そこで、両村は水量の豊富な赤川を堰き止めて、石樋(埋樋)を使って赤川の水を堀兼川に落し込んだのです。赤川を堰き止めれば、その分だけ水嵩が高くなり、水源地の矢放村では田の排水が不可能となり、稲の立腐れが発生して大きな紛争の原因となっていました。

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